守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月8日)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家。

専門商社・守谷商会の創業者。

生涯

備中国浅口郡本庄村(現在の岡山県浅口市)に、守谷金八の長男として生まれた。

幼少期から林李渓に学んだ。1885年に岡山県師範学校中等科を卒業し、県下の小学校(1886年からは尋常小学校)に勤務した。

その後上京して慶応義塾本科で学ぶ。慶應義塾への入学は、『慶応義塾入社帳 第4巻 入社帳24号-29号』(慶應義塾、1986年)によると1891年10月だった(同書p.174)。1892年に慶應義塾を卒業する。卒業後は三井組に入り、地所部から、芝浦製作所の工場事務、三井銀行の本店や支店に勤務した。その後王子製紙で経理課長を4年間務めた。

1902年、守谷商会を設立する。鉱山機械や銅・ゴムの製造販売を手がけた。守谷商会は1918年に株式会社化して社長となる。社外では棚倉電線の取締役や東洋ゴムの監査役など、複数の企業で役員を務めた。

1929年4月8日没。墓所は多磨霊園。

脚注

注釈

出典


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吾平のこだわり とりあえず吾平

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